2010 2 月

【2010年1月16日開催の第3回セミナーの概要】

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【遊戯としてのビデオゲーム】

2009年度第3回経営学振興事業セミナーは2010年1月16日、東京品川の「グランドプリンスホテル新高輪」において、33名の参加で開催されました。今回は「遊戯としてのビデオゲーム」というテーマで、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授上村雅之先生にお話し願いました。終了後、同ホテルで行われた懇親会でも上村先生を取り囲んでの質疑となりました。
以下は、セミナーのお話の概略です。

【プロフィール】

まずプロフィールです。私は1943年東京生まれですが、京都育ちです。ですからプレ団塊の世代です。1967年千葉工業大学電子工学科卒業後、早川電機(現シャープ)に入社しました。そこで光半導体(太陽電池)営業部に配属されました。その頃、オモチャでは光線銃が売れるような時代になってきました。大人がオモチャを買う時代になりまた。それがきっかけで任天堂へ行くことになりました。で、1971年任天堂へ転職し、開発部に所属しました。1983年にファミコンの開発責任者となり、1990年スーパーファミコンの開発責任者となりました。2004年任天堂を退職しました。そして立命館大学に参りましたが、まだ任天堂にも籍が残っています。任天堂の開発アドバイザーです。任天堂を離れてしまうと守秘義務の関係で立命館でお話しできないことになってしまいますので任天堂に籍は残っています。で、立命館大学大学院先端総合学術科教授で、映像学部のゼミももっています。

【スペース・インベーダーブーム】

一定年代の方は覚えておられるでしょうが、1960年代からの日本の盛り場で確固たる地位を固めていた「パチンコ」さえも、その存在が危ぶまれるほどの熱狂的なブームがおこりました。ここでNHKの「ルポルタージュにっぽん インベーダー作戦」の一部を編集してご覧いただきます。(番組を映写)
邦光史郎氏が舞台回しをされている30年前、1979年の作品です。任天堂でも、10台程購入して、みんなで遊びました。こういう遊び方があるということが心に残りました。この番組でも言われていますが、大人たちは初めは馬鹿にしていたのですが、冗談に遊んでみるとインベーダーゲームは「純粋に勝負だけ、点数だけに追っかけられる点から、昔はやった無償の恋」を思い出させる遊びだったのです。
邦光氏が言われているように、このブームは現代社会がもつ一種の閉塞状態からの脱出を求める人々の心を捉えたため起こったブームでした。

【スページ・インベーダーの特徴】

このゲームは、本格的な一人遊び(したがって遊び相手は不要)であり、機械が相手(先輩格はパチンコ)です。パチンコをさらに高度にしたものがスペース・インベーダーだといえます。というのも、ゲーム機が攻撃を仕掛けてきます。こういうことは、かつては技術的にできませんでした。その上、遊ぶためのルールが簡単・明瞭でかつ奥が深い。同じ条件で繰り返し遊ぶ事ができるし、自分の技量を高めていけます。そして、同じ条件で(多くの人が)遊ぶことができます。また、100円硬貨一枚でも遊べます。パチンコのような金品の報酬が全くありません。まさに「無償の恋」です。これは、100円という条件がなければ、まったく家庭用ゲーム機です。

【スページ・インベーダーブームの時代背景】

技術的な背景として、マイクロ・コンピュータの登場がプログラムによる微妙な制御を可能にしたということがあります。マイコンは1971年にインテルが発明しました。そして、1973年のオイルショック以降、省エネ技術の中核にマイコンが利用されていました。
社会的な背景としては、テーブルに組み込まれたということで、お金を稼ぐテーブルとして喫茶店を中心に急速に普及したと言う面があります。それに、これに女性が参加しだしたという特徴もあります。
インベーダー・ブームの時代背景としては、若者世代の遊びに対する価値観が変化していたということがあげられます。江戸時代以来大人の遊びと言えば、遊郭に代表されるような日常以外の場での遊びが中心でした。しかし繁華街で日常的に大人の遊びが楽しめる時代へと急速に変化していました。ときあたかも、1960年代に巻き起こった学園紛争やヒッピー運動がオイルショック以降急速に挫折し、若者が自己実現のために情熱を注ぐ場が急速に縮小しました。しかし、ここではビデオゲームが自己実現を提供できることがわかりました。
スペース・インベーダーは米国で初めて評価された国産のビデオゲームでした。もちろんその前に、米国はビデオゲームの発明実用化を行った国でした。米国では既に、ビギンボーザム、ラッセル、ベアなどという人たちが地ならしをしていました。すでに、テレビゲーム、ビデオゲームの開発が進んでいました。そこへインベーダーはアメリカに逆上陸しました。ただしアメリカには喫茶店がないためテーブル組込型は評価されませんでした。
次いでパックマンが開発され、その次に任天堂のドンキー・コングが開発されました。
アタリ社の「アタリ2600」にインベーダーが移植されるやいなや全米で大ヒットしました。「アタリ2600」は1500万台全米に普及していましたが、インベーダーは日本製でした。これは、テレビゲームの可能性を世界中に示しました。その後、アタリ社はつぶれましたが、任天堂が席巻しました。

【日本文化としてのビデオゲーム】

ゲーム機は日本発の文化だといえます。マイコンを使用したビデオゲームでは、コンピュータ映像をプログラムで微妙に調整することが可能になりました。例えばインベーダーが発射するミサイルの速度、発射数、ミサイルの命中率など操作設計できます。これはプログラマーが実際に遊びながら設計します。命中率を適当にする必要があります。遊びに対する感性でほぼ決定されるといえます。ビデオゲームではプレイヤーもまたプログラマーと同じ条件で遊ぶことができます。ここでは、コンピュータの性能ではなく、感性が大切です。面白いと感じるのは、プログラマーと同じ「遊戯感性」をプレイヤーももっていると考えられます。この感性は、個人的に体験してきたさまざまな遊びにより培われてきたと考えられます。映像というイマジネーションを楽しむ、その人のもっている遊戯体験が大切です。
伝承遊びと呼ばれる多くの遊びには、遊びとしての重要な要素が多く含まれています。例えば、サイコロなど非常に古い遊びです。日本のゲームが売れるのは世界中の人が同じような感性を受け継いできているからではないでしょうか。五感で感じることが基礎です。伝承遊びを含むさまざまな遊びの文化が豊かであれあるほど、その文化を享受できる人たちは「遊戯感性」を豊かにする機会に恵まれているといえます。日本では宗教の制約がありません。そういうこともあってゲーム機が日本で発達したのではないでしょうか。
ここに、ファミコンが登場しました。ビデオゲーム機は販売面で可能性があったゲーム機ですが一時期衰退しました。しかし、その可能性を信じて1983年に任天堂がテレビゲームビジネスに果敢に挑戦したわけです。ゲームセンター用に作っていたものを家庭用にしたのが任天堂でした。かくて、ファミコンブームがおこり、ゲームソフトメーカーが登場し、あっという間に400万台普及し、そこへスーパーマリオでさらに売上が増えました。
「首都圏」という番組でその周辺が紹介されていますので、これを編集してご覧いただきます。(番組を映写)

【ファミコンブームの背景】

ご覧いただいたところからわかるように、ファミコンがブームになったのには、遊びの環境変化がありました。すなわち、遊び場の減少、外遊び時間の減少、塾・お稽古ごとに必要な時間の増加、そこで細切れの短時間しか遊ぶ時間がない、みんなが集まって遊べないというようなことがあり、この背景からテレビ視聴が増加していたのですが、テレビに飽きた頃にテレビゲームが入ってきて爆発的に普及したわけです。
それまでから、子供のおもちゃ離れが進行していました。大人が従来使っていたものを子供が買えるようになっていました。この原因にうまくフィットしたのがテレビゲームでした。すなわち、隙間時間の活用です。これは今や、携帯電話とシェア争いしていますが。

【立命館大学で今調査研究していること】

ファミコンがブームのピークを迎えた1986年前後に誕生した若者20歳から28歳の若者108名に「自分自身の遊戯史」をレポートしてもらいました。それからわかることは、小さい頃屋外遊びが主流で、中学くらいから屋内遊びが増えます。屋内遊びの中でダントツに多いのがテレビゲームです。屋内遊びの年代別分布をみますと、全年代にビデオゲームの割合が高く、とりわけ中学時代が最高の割合です。
低い年齢では、屋外遊びが高い割合を占めています。鬼ごっこ、ドッチボール、かくれんぼなどです。
また、テレビゲーム遊びの年代別人数の変化からわかることは、一人遊びのツールだと思われているテレビゲームが集団で遊ばれているということです。

今回の調査結果から判明したことは、
1.小学生低学年では鬼ごっこに代表される屋外での遊びが多く遊ばれていること。
2.中学校、高校と年齢を重ねると屋外の遊びが減少し、屋内の遊びが中心となる。
3.小学校から大学の間、最も多く遊ばれているのはテレビゲームであった。
4.即ち、テレビゲームは年齢を問わない遊びである事が明確に示された。
5.テレビゲームの遊びは2人以上で遊ぶ場合が多い。
6.しかし高学年になるにつれて一人遊びが増えており、中学生時代が最も多い。
7.小学校低学年の屋外遊びの中心は鬼ごっこ(ドロケイやケイドロ)であり、ドッチボールが次に多く遊ばれていた。
8.鬼ごっこもドッチボールも主な遊び場が学校の校庭であり、次に公園である。路地裏や近所の空き地で遊んでいたと答えた人は極めて少なかった。

また、テレビゲームはおもちゃかという質問に対しては、62%がおもちゃだと答えています。テレビゲームはIT機器だと位置づけることもできますが、60%以上がおもちゃだと認識しており、面白いからとか、楽しく遊べる道具だからと答えています。技術背景には評価を与えていていません。技術ではなく遊びとして評価されているわけですから、遊戯感性が大切です。
日本では、もっぱら子供が遊ぶ道具全般を「おもちゃ」又は玩具と呼んできました。そこには手で遊ぶとか、五感を駆使して楽しむ意味が含まれています。テレビゲームはその五感駆使の体験のイメージを再現しているだけです。残念ながら遊びの質としては低い。
昔「香遊び」というのがありました。遊びは五感を駆使するものですが、これは嗅覚とか触覚で遊ぶものです。テレビゲームにはこれは難しいでしょう。ウルトラマシーンなど三次元視覚を駆使するものもありますが、ビデオゲームで遊べる内容は限られています。
ビデオゲームとは一体どのような遊びなのかと考えてみようというので、今研究を進めています。
ビデオゲーム機の遊戯の定義をしてみますと、インタータクティブであり、映像→操作→映像と言う流れです。遊戯者の遊戯判断に影響を与えるのは、遊戯情報、効果音など、周りの人たちギャラリー、経験と知識、です。これが次のボタン操作に結びつきます。以上の仮説をもとに、ビデオゲームの遊戯内容の客観値化をしようとしています。遊戯記録が50人くらいたまったところです。今分析を進めています。かなりの事がわかってきて、仮説検証しているところです。立命館発の研究成果となる予定です。
最後に、日本の中世の人は素晴らしいはやり歌(今様)を残しています。「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さえこそゆる動がるれ」というものです。21世紀に生きる日本人も中世人に負けない遊びの歌が生まれる遊戯環境を育んで欲しいと心から願っています。
本日はご静聴ありがとうございました。

《編集後記》

紙幅の都合上、興味深くて楽しいお話のすべてを伝え切れていないのが残念です。とくに映像部分は当然の事ながら省略せざるを得ませんでした。
次回セミナーは2月27日ホテルグランヴィア京都において、前・京都府副知事、現・総務省総合通信基盤局高度通信網振興課長の猿渡知之氏による「近代日本の流れと私達の課題~横井小楠の思想を補助線にして~」というお話しをうかがいます。お楽しみにお待ち下さい(M)。

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