【第2回セミナー(親の意見となすびの花は千に一つも無駄がない)を開催しました。】

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【第2回セミナー(親の意見となすびの花は千に一つも無駄がない)を開催しました。】

2013年度第2回経営学振興セミナー
親の意見となすびの花は千に一つも無駄がない

2013年11月3日(日)京都御所無料拝観日のこの日に、御所に面した京都ガーデンパレスにおいて、経営学部校友会2013年度経営学振興第2回セミナーが行われました。

今回は「半兵衛麩」11代目当主玉置半兵衛氏による「親の意見となすびの花は千に一つも無駄がない」と題するお話しでした。56人の参加があり、盛況のうちに終えました。大変ためになる、そして楽しいお話しで、かつ、京都弁の柔らかい語り口にみんな引き込まれてしまいました。玉置氏には続く懇親会でもお付き合い頂きました。大変盛り上がりました。以下当日のお話しをご紹介いたします。

半兵衛麩の由来
玉置家は和歌山、奈良、三重の重なっている地域、熊野大社玉置山に発します。玉置神社の系図でみると92代目です。玉置一族は、近衛家から嫁に来たり、平清盛と関係があったりで、天皇家の遠縁にあたりますから天皇家が安心して任せられると、天皇陛下のご飯ごしらえや門番をもしていました。こういうのが玉置一族の仕事でした。初代玉置半兵衛は、320年余り前、御所で習った麩つくりを業として「半兵衛麩」を立ちあげました。元禄時代です。ところが、2代目は三味線の師匠になるなど、家業そっちのけでした。そこで次の子の3代目は母親を助けたいという一心で頑張りました。そして石田梅岩の教えを聞き心酔いたしました。

石田梅岩と半兵衛麩の関係
石田梅岩は、亀岡から丁稚に来た人ですが、仲間が寝ている間に神道、儒教、仏教を勉強した人です。でも、自分は知るためだけに勉強したんだろうか、それでは何のために勉強したのかわからない。世のため人のためにならない。そこで、字を読めない、勉強したくても時間がない人に、自分の勉強したことを話してあげようと、御池車屋町上がるで小さな借家を借りて、誰にでも無料で講釈を始めました。そのうち、良い訓えだと評判になり、小さな家では入りきれなくなり、大きなお寺を借りて講釈するほどになりました。
 3代目がそれを聞きに行ったわけです。梅岩の訓えに惚れ込み、梅岩の門下生杉浦宗恒の弟子となり宗心の号をいただき、自分も人に話すようになったのです。そして自分の娘に「梅」、「岩」と名前をつけたほどでした。
 梅岩は「正直、倹約、勤勉」の3つを話しました。当時ものをつくらない商人は、士農工商の一番下に位置づけられていましたが、「商人には商人の使命がある。それは流通であり、ひと様の為に生きなさい。ひと様のお役に立った代償としてお金をいただくのだから、武士の禄と同じく堂々と儲けなさい」、と商人哲学を説きました。
3代目が梅岩の訓えに基づき、「先義後利(荀子のことば)」を家訓にしました。「義を先にして、利は後とする」では、「義」とは人の正しい生き方を先にして、「利」強欲、出世欲で他人をダマしたり、ウソをついてお金儲けをしてはいけない。」論語に「君子は義に諭(さと)り、小人は利に諭る」といいます。
 人が判断しなければならないことはたくさんありますが、そのとき徳を積んだ君子は「義」を大切に善悪で判断します。ところが、小人は自分にとって損か得かで判断します。

代々、心学が教え継がれてきた
善悪の漢字は、「善」は、神に捧げる生け贄(いけにえ)を選ぶ時は、羊をはさんで言い合うから生まれた字で、「悪」は洞穴のように曲がりくねった心をあらわしています。わが家では、石門心学の訓えと家訓を代々実生活の中で、教え継いできました。私は、11代目ですが、親は話しながら字を書いて教えてくれました。字の書き順より、字の意味を教えてくれました。火鉢の灰のなかに書いたり、土の上に書いたり、水や背中に書いたりして教えてくれました。だから、よく覚えているわけです。
 また祖父からも教えて貰いました。半紙の上にあられを置いて、割れているのや欠けているのから食べなさい、というのです。その意味を父親は次のように教えてくれました。割れたのから食べると、きれいなのが最後に残る。それは、いやなもんから片づける癖をつけるためだ、と教えてくれました。いやなことから片づける癖は、大きくなってから役に立ちます。ある銀行で、融資を頼みに行って応接室に通されたとき空豆を供します。その時、客がどの空豆から食べるかを見て、きれいなのから食べた人には貸さない。それは、いやなものから片づける癖のある気性の人は、借金を必ず返す。それを知ってそうするのだと教えられました。
 父親から教えられた言葉は数知れずあります。私は魚を食べるのが上手でした。きれいに骨までしゃぶりました。でも父親はそれを赦してくれませんでした。なぜかというと、骨を折ってはしっこによせておきなさい。残骸をさらしたらあかん、というわけです。私達は生きるために動物の生命を犠牲にしている。だから、「いただきます」は動物の命を頂いているから、そういうのだというわけです。また、魚は葬式はして貰えません。でも魚であれ命に変わりはない、その葬式の場所は便所です。だから便所をきれいにしておく、そして「ありがとう」、手を合わせて「すまんな」、と言って便所から出ておいで、と教えられました。小学6年の時です。それで命の大切さを教えられました。

始末とけちは違う
風呂屋へいったとき、サラのタオルを出そうとすると、ほんまにサラをおろさないかんか、よう考えてからにしなさいと言われました。また古いのは雑巾になる。さらにその後は油ふきに使う。そしてまたその後は焚きつけにする。そういう始末を教えられました。
 始末とは、サラをおろす「始」の字と捨てる「末」の字で使い始めたら、最後まで使い切る。それは物にも命があるからです。始末とケチは違う。必要なものも使わないのがケチ。だから始末はしてもケチはしたらあかん。例えば、始末したお金での寄付は世の中の為になる事だからしなさいと教えられました。倹約の教えです。父親が死んだとき私は27歳でした。それまで毎日話を聞ききました。こんにちになったら、これは実に有り難いことだったと思うようになりました。

信頼の大切さ
「云う」、「言う」という言葉、漢字があります。人に云うから伝わる、人が言うから信じることになります。黙ってたら不信に思われます。しゃべって、コミュニケーションとらなあかんわけです。また信用できる人が大事です。お互いが信じ合うと、会社はよくなり、だから人を信じる者がいると「儲」の字になるのです。信じられる商品、信じて貰える商品を売ったら、儲かるわけです。
 堂々と人に自分の行動が言える人が大事です。信念のある人にならなあかんと、「今のこころを人に言える」と書いて教えてくれました。すべてのことに、哲学、教えがあります。聞いている者、行う者が成功します。騙してまで儲けてはいけない。堂々と儲けなさい、商売を続けなさいと教えられました。繁栄させようとする人は、子供たちに何をしてやったらいいか、ですが、このように言われております。
 「財を残すは下、事業を残すは中、人を残すは上」と。
 信頼される人を残すのが肝心です。しかし、まだ続きがあるのです。「されど、財なくは事業続かず。事業なかずんば人育て難し」。儲からないと、お金が無いと、商売は続けられません。商売がなくなれば人も育てられません。だから、商人は儲ける事が大切です。といいました。
 私の所は麩屋です。すき焼きをするとき、麩を入れます。でも肉、砂糖、醤油、ネギがなければ、すき焼きはできませんが、麩がないからすき焼きができないということはありません。有っても無くてもよいような食品を作って320年。馬鹿じゃないでしょうか。でも、お客様の求められる美味しい麩を真面目に作ってきたからこそ320年続けられたのです。いいもんをつくらないといかんのです。

老舗だと思たらあかん
老舗はええな、と友達がいいますが、人知れず努力をしないと続きません。泳いでいる白鳥のように、水面下は地獄です。自分から老舗だとおもたらあかん。父親が一番嫌いな言葉は、しにせ(老舗)です。
老いたら店はしまい。「し」にせの「し」という言葉には良いことがありません。「し」とも読める字に「止」がありますが、止まった店はだめになります。死(し)んだ店はだめです。私(し)、私化するのもいけません。店はわたくし、つまり自分のものではありません。世間さまのもの、社員のものでもあるのです。
 「しにせ」ではなく、「しんみせ」(新店)、新舗、でないといけないと言われました。親の商ひをそのまま継ぐのではなく、新たに自分がやっていくんだと考えなさい、と教えられました。電車は1両、1両つながっている。1両1両自分で動いている。私はその11両目です。
車輌はジョイントでつないでいる。代々つながっている。これが「家訓」「梅岩の訓え」なのです。金儲けのために商売をしているのではない、という理念です。一代、一代、新しいことをするのです。かつては50年経つと古くなると言いましたが、今は5年か10年で古くなる。だから新しいことに挑戦しなさい。

「しん」という字
「しんみせ」のしんは「眞」です。「眞」は、マコト。マコトを尽さなあきません。このように教えられました。「しん」という字はたくさんあります。

「清」常に清らかに・・・。法律や条令は守ること。
「信」人様に信頼され、信用を大切に。
「進」前に進む。いつもプラス指向で・・・。
「親」親許のように安らぎのある店。親切に。
「慎」つつしみをもち、謙虚に。
「心」思いやりの心。
「辛」辛いことがあっても辛抱する。
「紳」ジェントルマン、ナイト、武士道の心。

があってこと、商売が続けられるのです。

善因善果、悪因悪果
誰も人から生まれます。親に何をして貰ったか、布団をひいて寝させて貰った、大の字になって寝た。布団の上に人が大の字になって寝ている姿を表わした漢字が「因」です。この因、はじまり、という意味になります。始まりの心を忘れてはいかんわけです。そういう心を、因の下に心をつけると、恩となります。因りの心を忘れないのが「恩」です。
 終わり、もあります。田を放っておいて、木がはえたら、田として役に立ちません。それで田の下に木をつけると、果てるという字になります。
 よく因果のわからんやっちゃ、といいます。始まりを感謝し、果てないようしっかり守る必要があります。良いことをすれば良いことで帰ってくる。善因善果、悪因悪果です。これは正しい人間の道を歩みなさい、と言う教え、です。

梅岩から父親へ、そして私へ
どう商売すべきかは、正しい生き方から始まります。道徳を教えるのが大事です。梅岩は勉強したことを教えるのが大事だと思いました。私達は梅岩の教えを聞ききました。これを知っただけではだめで、実行しなければなりません。実行はできても、それをさらに続けないといけません。禁煙でもそうです。だから、知ったら、決心し、実行し、継続しなければいけません。継続しなければだめです。知っているだけなら、それは文字芸者です。実行しないといけない、それが梅岩の教えです。
 父親の死ぬ前に私を呼んで言いました。「もっと遊びなさい」と。その意味はこうです。6畳の間で寝ているけれど、本当に寝るだけだったら1畳で十分です。けれども、残り5畳は、安らぎ、余裕です。ゆとりから、人間の機微、情がわかるのです。確かに百畳の間では寝られない。遊びすぎです。ゆとりがあると、人の幅が出てくる、そして人がよってくるようになるわけです。してはいけないことはしてはあかん。そういわれました。
 父親語録にはいろいろあります。「てんご、わんぱく、やんちゃ、は赦される」。それは大きくなったら直るからです。ずる、横着、スコイは直らない。だから、ゆるされん。
 優しい顔したボコスコ(おぼこいけどすこい)男に気をつけて、こつま(人だましばかりする)3代近寄るな。こつま織というのがあるのですが、細い木綿で、まるで絹のようです。これを木綿と偽るような人間、一族には近寄るなというわけです。
 石田梅岩は、ひとさまの為に生きる。その生き方を教えた歌があります。石門心学の真髄です。「風呂焚きの 我が身は煤に汚れても 人の垢をば流さんものかな」。これは、「我が身は辛くても 人が喜んでくださるのが 私は一番好きです」とういう意味です。そのように心掛けて、これからも生きていくつもりです。

《編集後記》
京都弁の柔らかい語り口から、教訓となるお話しが語られるのですが、少しも固くない。わかりやすく、楽しくお話しいただきました。次回のセミナーは、来年2月に東京で行います。ご期待下さい。(松村)

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